泌尿器科の往診

日帰り手術をするには往診が絶対必要でした

高齢者の手術には、往診体制が必要です。とくにメッシュ手術をしているころは、絶対不可欠でした。これは、高齢者の手術の場合は、予測できないようなことがおこるからです。そこで、考え方をかえましょう。メッシュを用いるTVM手術をすることが目的ではなく、『健康的に歩くことができる』ということを大前提にします。

TVM手術の場合は、フランスで研究グループが報告したときから世界に広まりましたが、評価には、本人の不快感やセックスという項目が重視される傾向にありました。しかし、75歳以上はちがいます。健康的にあるけるというのが最大のテーマです。あるくのに邪魔にならないようにしたいという気持ちです。一方でほかの原因であるくことに支障がある方も多数います。また、心臓がわるくて、血液サラサラ薬を何種類ものんでいる人もいます。ペースメーカーの関係で電気メスが使えない方もいます。

テーマは、やはり『ラクにあるくことです』。そこで、僕のクリニックでは、血液サラサラ薬を休止できる最低日数で手術がおわり、術後安全にすごせるように手術を工夫します。電気メスの使えない人は、使わないで済むように努力し成功してきました。そして、その人たちが何かあったときのために、往診できるようにしました。
認知症の人も手術しました。往診をすることで、入院なしにすみました。これは、大変ゆうこうでした。入院すると環境がかわるので、認知症が悪化します。ひとにより抑制をされてしまいます。しかし、慣れた家にかえることができれば、認知症が悪化しません。それには、日帰りできるように、手術を工夫する必要があります。

 

メッシュ手術を停止して緊急往診はなくなったが、、

メッシュに対して疑問をもちはじめ、やがて完全にメッシュはつかわないことにしました。このときから、緊急の往診はなくなりました。

そして、手術の幅がひろがったのですが、それでも危険なリスクのある人という場合があります。

以前、ある女性の患者さんを手術させていただきました。そのとき、彼女は87歳。心不全もあり、頸椎神経麻痺あり、呼吸困難あり、酸素あり、とてもじゃない手術ができる人ではありませんでした。でも、彼女は熱意をもって、なんども僕を説得してきましました。
あのときは、たいへんでした。何度お断りしてもたのんでこられる。そこで、とうとう根負けして、手術をできるか、循環器内科、麻酔科、脳神経外科 いろんなドクターに相談しました。循環器内科は、血液サラサラ薬を中止しない条件でといわれ、これはもはや手術できないとひとしく、麻酔科は麻酔をかけれませんといわれ、脳外科は上向きにねると呼吸がとまるので、斜めにして、しかも、45分以内で!という条件付き。そこで、ふたたび断わりましたが、それでも、彼女はどうしても手術がしてほしい。リングでは骨盤臓器脱がおさえることができないのです。彼女は、息子と娘全員の署名入りの嘆願書までもってきました。家族全員をつれてお願いに来ました。大学病院をいくつも紹介しましたが、すべて受けていかだけませんでした。

 

なかまを集めて手術にふみきる

僕は、なかまの循環器内科がとめる中、倫理委員会をひらいて承諾をえて、とうとう手術にふみきりました。麻酔科は、反対して、手術室に同席すらしていただけませんでした。みんな何かあったら、訴訟されると言いだす始末でした。僕は、僕個人の責任で手術をするために、訪問看護ステーションと連携し、在宅ケアの専門内科医とも話し合い、自宅にかえることを前提に手術をすることにふみきりました。手術の方法は、わずかな時間しかないので、メッシュをつかったIVS手術にすることにしました。局所麻酔でできて、血管にさえ当たらなければ出血がないからです。緊張しながら、局所麻酔をして、血管にあたった瞬間手術は中止という約束にして、家族全員の了解をえました。手術は、わずか15分でおわらせました。TVM手術という名前がまだなかったころの、メッシュ手術です。この間、僕の気持ちに賛同した循環器ドクターや在宅ドクターは待機してくれました。超高齢者への手術に、賛同しないドクターと賛同するドクターが完全にわかれましたが、それでも、仲間が沢山いたのです。

 

法律的な問題も

僕がこの手術をして、かりに血管にあたり、出血したとして、僕は法律的に訴訟され、犯罪になるのでしょうか?実は、答えはちがいます。これは、法律学をまなぶとわかることです。患者本人・家族すべての総意があり、僕の行為にたいして、傷つけられたと理解した場合は僕は訴訟をされます。でも、そうでなく感謝の気持ちをもたれていた場合は、これほどのハイリスクの手術をしても訴訟にはなりません。でもその見極めは大変難しいです。ものは見方の問題です。たとえば、道で苦しんでいる人に心臓マッサージをしたら、その人が医師でないからと咎めはありません。善意であると倒れていた本人や家族がおもうからです。この法律の知識をふんだんにつかい、医師たちの説得をしました。

 

意外な結末が

手術がすごくうまくできたのは、とてもよかったです。でも、血液サラサラ薬がいがいなところで足をひっぱりました。手術当日も本当にちょうしよく、術後2週間ほんとうによかったです。ところが、3週間目のある日、ソファーですわっていた彼女は、たまたまお尻をこすってソファーからおちてしまいます。たまたますべったのだそうです。そこには、今回の手術の傷がありました。傷はこすれて血がでてきて、出血はとまらなくなりました。IVS手術という選択をえらんでいたのが裏目にでました。このIVSは、切開がほとんどない。しかし、そのかわり、ホチキスのようなもので、体にささえるアンカーをいれます。手術がすごくはやくすみ、出血もほとんどありません。でも、このアンカーが、ソファーからおちたとき、こすれたのです。膣全体をあけて縫えばこのようなことはおこりませんが、そのかわり術中の出血がおおく対処できませんし、頸椎のわるい彼女はその時間の手術がもちません。苦肉の選択で、手術が大成功し、安心した3週間目のことでした。まさかソファーからすべって、お尻をこするとはおもってもみませんでした。出血はとまらず、緊急入院しました。点滴wしても、血圧がおぼつかなく、輸血になりました。僕はそのとき、もう疲労で対応できないぐらい疲れ、頭痛をおこし、体力の限界になりながら、この患者さんにむきあいました。内科のドクターの中には、『こんな高齢者を手術するからだ』と心ないことを、僕や家族にいうものもいました。そして、主治医チームに入ろうとはしませんでした。でも、僕の気持ちをわかった若い救急医が『先生の情熱をかんじました。主治医をかわらせてください』ともうしでました。僕はすこし休むことにしたのです。そして自宅にひさしぶりにかえり、6時間の睡眠をとりました。妻いわく、僕が死んだようにねているので、本当にびっくりしたそうです。その明け方、彼女の心臓がとまりました。

 

奇跡がおこる

心臓がとまり、わかい救急医は、おもったそうです。輸血にたえることができる心臓ではなかった。こうなる運命だと。でも、心臓マッサージを開始しました。息子と娘娘が全員あつまりました。そして、『奥井先生にあやまろう、あんなにがんばってくれたのに、母さんの体力がもたなかったんだ』と、全身が心臓マッサージをみつめながら、僕をまちました。僕は病院へいき、病室へいきました。そのとき、心臓がよみなえりました。また脈打ちました。15分後、彼女は意識をとりもどしました。僕に感謝の気持ちをつたえ、そして、僕をはげましました

 

そして、5年間往診をしました

彼女はその後5年間、通院してきました。とくにすることもなく、毎回世間話をする程度ですみました。頭のしっかりした患者さんでした。クリニックを開業したら、一番にいきたかったけど、風邪をひいいてね、、、といわれていました。手術から5年後、僕は彼女によばれました。看取りをおねがいされました。しずかな看取りをしました。

僕は彼女の往診は、葬式のあった教会にもいきました。彼女はいいました、『先生、ありがとう。膀胱がおちている病気、何歳でもなおしたいんだよ。先生は夢をかなえてくれた。30年間あるくこともできなかったのに、先生のおかげで、なんとラクな5年間だったか』と。
そのとき、僕はこれが、僕に与えられた仕事だとおもい、積極的に80代の手術をはいめました。年齢と心臓をみてすぐ断ることはしない。出来る限り手術できないか努力する。と。

 

往診には学ぶことが多かった

認知症の彼女は、頻尿と違和感が大変だった。それは、認知症のためかどうかわからなかった。ある日、ある内科医が、『彼女はトイレの悩みで夜間にうろうろしているんじゃないか?』と僕の受診をすすめてくれた。
彼女は、骨盤臓器脱だったので、僕は日帰り手術をした。日帰りにしたのは、認知症の悪化をせずに、手術をするためだ。
今日、彼女は元気に来てくれた。陰部の違和感がなくなった彼女は、もう周りを困らすことがなくなった。娘さんは、笑顔で話してくれた。僕は、ハッピーさ。最高さ。すごく、うれしい。ハイジのおばあちゃんで出てきそうな彼女。
ちなみに、僕のクリニックには、巨大フェルメールがある。これは、別の人なんだけど、東京まで足がわるいのでフェルメール展に行くことができない90歳の女性がいてね、その人のために、クリニック内のフェルメール展覧会をしているのです。そしたら、好評で、いまだにフェルメール展が続いています。(笑)

 

 

看取りの瞬間の思い出

今回の看取りに、メロンを使った。彼女はメロンが大好きだった。
泌尿器科医の看取りは一人ではできないから、
患者さんの近くの内科医師と共同でおこなうことが多い。
看取りには正解はないのだ。だから、いつもいろんなアイデアを出し合うことにしている。

死に行く人が、メロンが食べたいと言っていた
誤嚥性肺炎(まちがって肺にはいり肺炎になること)が心配だから、ずっと禁食にしていたそうだ。これもただしい考え方だとおもった。いろいろ娘さんにとっては、やってあげたいとができないでいた。
それじゃあ、娘さんが可愛そうだ。
お母さんは、いま意識が混濁し、あと少ししかない。

僕はきめた、メロンを細かくして、娘さんの指につけた
そして、その指で彼女の唇を刺激した。
刺激したら、彼女は目をさましたごとくに、舌をだした
そこで、舌にメロンの果汁を塗った
彼女の舌は、口の中で、全体をなめるように動いた。
そして、すこし休憩したら、また口をひらいて、舌をだした。
そこで、またメロンの果汁を塗った。
『お母さんが、喜んだようなきがします』と娘さんが感じたという。
そして、また彼女にキスをお願いした。キス、メロン、ささやく、
いま彼女にのこされた感覚器官は、唇と頬しかないのだ。

今夜は、一晩中話しかけて、メロンを口に塗って塗ってほしいと頼んだ。
長年の経験から、彼女が天国にいくのは、明日だろう。すきなだけメロンを唇に縫って欲しいと頼んだ。伝わるとおもう。

(翌日の日記)
昨日の彼女に会いに言った。
朝から手術を2件おわり、そのまま急いで車を運転して彼女のもとへ。
朝からスタッフから話はきいていたので、だいたいのことはわかっていた。車をローソンにとめて、2分ぐらいあるく。
電話をした。『僕がいまきましたよ。ローソンに止めたところです』
『ありがとうございます。息をしていないんです』
わかりました。と言って、急いで家へ

彼女は、医学的には死亡していた。
でも、まだ死亡診断をいまするのはやめよう、とおもった
手があたたかい、
ほほもあたたかい
娘さんに、『いっぱい触ってあげて、
まだあたたかいから、お母さんはそこにいると思うんだ。
心電図や呼吸や対光反射で死亡をきめたのは、法だけのこと。
でも、あたたかいから、まだいるような気がするんだ
まだ、まだ、手をこすって、いっぱい話してよ』

そうこうしていると、彼女の友だちがたくさん来た
みなさんに、僕の説明をした
みなさん、なっとくして、手が暖かい限り、まだみんなで手をあたためることにした
そして、主治医の内科医に連絡した。
僕は、もうひとり高熱をだしているおじいさんがいるので、そちらに移動することにした。それまで、彼女は娘と友人に囲まれて暖かい体のまま。
内科医は、1時間ぐらいして到着して診断をした。
1時間、体温がさがるまで抱きしめていただろう。

 

死後訪問

死後訪問
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今日は男性の方の死後訪問にいった
僕がはいると、奥さんがすごくよろこんでいた
彼女の看取りでのがんばりは、ほんとうに、愛情がこもっていた
.
看取った時、彼女は、僕に質問したことがある
『ねえ、先生、主人をどんな服を着せるのがいいの?』
そうだね、なんでもいいんだけど、彼が一番お気に入りがある?
.
『このスーツがある。主人はちびだから、もうだれも着ないの。主人も、何年もきていないの。でも、これ来て働いているとき、かっこよかった』
じゃあ、それにするといい
いちばんお気に入りをきて、そして旅立つといい
.
お通夜で彼をみたとき、
スーツにネクタイをして、びしっと決めていた
ビジネスマン時代の古い鞄も、棺にはいっていた
彼女は、夢中で話す
.
『先生、このひと、ほんと、ハンサムでかわいいでしょ。先生だから、正直にいうと、このひと、本当に好きで結婚したの。かっこよかったんだよ』
.
控室で、親戚一同があつまっていた
僕は、彼の病気のはじまりから、きょうまでの日々
親戚や家族がおもっていた疑問にこたえた
僕が関係しない入院の医療の質問もあった
正直に、それは、医療が不十分だったとみとめた
でも、最期の最期まで、彼女のおもいのまま、そのままみとったことを
そこまで、みんなでまとめると、安堵感がただよった
.
先生、すっきりしたよ
これで、送り出せたという気持ちになれる
そう言っていただけたので、死後訪問してよかったと思った

 

クリスマスコンサート

昨年クリスマスにコンサートをさせていただいた。

その時のおじいさんを、今朝看取ることができました。
やすらかな感じで、息子さんも娘さんもとても満足されていて、
とても、はげまされました。
次に出会う人にも、痛みのない時間をつくることにサポートできるよう
医師は、流れる川をささえる役目のように、ありたいと思います。

今日は、お通夜に会いにいこうとおもいます。
僕といっしょにとった、この写真を、ぜひもってきてね
と頼まれていいます。お亡くなりになったあとの往診を、死後訪問といいますが、
僕には勉強になり、そして、
このいい思い出が、あたらしい患者さんへの努力の原動力になるのです。

 

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